12月14日(土)、本学100講義室で「魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会」が開催され、200名以上の聴衆を集めました。田中先生は税制論の大家であり、2001年度鳥取環境大学開学時から4年間、環境政策学科の教授を務められました。近年は我が国税制の起源を探り、その最古の記載が魏志倭人伝の「収租賦有邸閣」の六文字であることに着目されて次々と論文を発表されています。講演会の構成は以下のとおりです。
1 開会・趣旨説明
2 第1部講演「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」
コメント:茶谷満「中国考古学からみた邸閣のイメージ」
3 第2部講演「魏志倭人伝に係る、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-」
コメント:中原斉「倭人伝にみえる投馬(つま)国と山陰の関係遺跡」
4 質疑応答・閉会
地方分権から中央集権的国家の形成へ
第1部では、「収租賦有邸閣」を「租賦を収む。邸閣あり。」という二文に分けて読み下しました。租は米や絹などの物品税、賦は労役・兵役などの人頭税として、後者が邸閣(大倉庫)とは無関係とみなされたのです。しかし近年、中国湖南省長沙馬王堆漢墓出土の「走馬楼簡牘(木簡)」に「邸閣」および「関邸閣」の語が頻出し、前者は軍事的な倉庫群(兵糧倉+武器庫等)、後者はそれを管理する役職名であることが明らかになってきています。兵役(賦)や軍事倉庫(邸閣)の存在から、邪馬台国の中央集権的な国家支配が想像されます。
第2部では、魏志倭人伝に先行する『魏略』や『広志』の逸文の精緻な分析から、邪馬台国(初期ヤマト政権)は奈良にあったとしても、卑弥呼が居たのは北九州の邪馬嘉(ヤマガ)国であって、さらに九州中南部の狗奴(クナ)国を含めると、当時の西日本には三大勢力が鼎立していたことを主張されました。こうした群雄割拠の地方分権的状況は、「倭国おおいに乱れ」た弥生時代後期の最終形ともみなされます。それはおそらく、80年生きた卑弥呼の前半期(鬼道に仕えた若き宗教者の時代)にあたりますが、魏から金印・銅鏡・黄幢などを下賜されて専制君主的地位を高めた後半期(「収租賦有邸閣」の時代)へと変化し、古墳時代の黎明を迎えるのでしょう。
投馬国イヅモ説-表玄関としての日本海
山陰との係わりで注目されるのは、魏志倭人伝にみえる「投馬(ツマ)国」です。これをイヅモの訛音とみて、魏の使者は北九州から日本海を北行し出雲を経由して邪馬台国に至る、と解釈する意見が大正期からあり、近年再評価されています。田中先生が紹介された宋初の百科全書『太平御覧』に引く魏志(古い版本)では「於投馬(オヅマ)国」と記しており、さらに音声がイヅモと近似しています。朝鮮半島西岸から北九州を経て山陰~北陸へと移動する日本海ルートは、青谷上寺地遺跡(鳥取市)出土の鉄器の伝播ルートとも重なりあっており、東北アジアの地中海として日本海の沿岸はまさに古代日本の表玄関であったことがみえてくるのです。魏志倭人伝の解釈にとどまらず、山陰の古代史を考える上でも貴重な発見のある有意義な講演会となりました。
関連リンク先
(本学HP)
(浅川研究室ブログ:魏志倭人伝を読む)